
世田谷方丈未来研究所・アフターサラリーマンの生態報告
長らく務めていた会社の嘱託社員契約が満了し、ついにフリーランスへと「昇格」することができました。その後、日課として千歳烏山のプールへ通う日々を送っていたのですが、その道すがら「八幡山遺跡」の小さなモニュメントを発見いたしました。すると、つい好奇心が抑えきれなくなり、八幡山遺跡について少しばかり深掘り研究をしてしまいました。その詳しい結果は、YouTube(下記URL参照)に投稿させていただいておりますが、ここではその概要——つまり、私の「妙な出来心」の中身を皆様にチラ見せ差し上げ、それをアフターサラリーマンとしての生態報告に代えさせていただこうと思います。

縄文時代中期:一万五千年の「OS」が最も輝いた時代
まず、私たちが足元をすくわれるのがその「時間」の感覚です。縄文文化自体は、氷河期が終わる頃から一万五千年近く続きましたが、ここ八幡山遺跡が最も賑わった「縄文時代中期(約五千年前)」は、その中でも最も文化が爛熟した黄金期でした。
当時の日本列島は、気候が温暖で森の恵みも豊かでした。人々は大規模な集落で安定した定住生活を送り、豪華な装飾の土器を作り上げ、遠方と交易を行っていました。世界的に見れば文明が誕生し、青銅器を使い始めた時期に相当しますが、日本の先祖たちはあえて「石器と土器」を究極まで研ぎ澄ますことで、自然と共生する道を選んでいたのです。
古代のグローバルネットワークと「土器という通信プロトコル」
たとえば、一つの謎があります。五千年も前の人々が、単なる石の欠片である「黒曜石」を、遥か神津島からグローバルなネットワークを経由してまで調達した理由です。これは、現代の私たちが最新デバイスのためにレアアースを奪い合う構図と、本質的に同じものでした。
また、彼らは集落を成立させるために、土器を用いた「ある種の通信」を行っていたのではないかという仮説を持つに至りました。その方法とは、当時すでに実現していた土器による煮炊きです。夕暮れ時、土器からふわっと漂うカレーやシチューのような香りが、八幡山の台地から周囲へと広がっていく。それが狩りに出ていた仲間たちに「そろそろご飯だから帰っておいで」という合図を送る、リモート通信手段として機能していたのではないかという考えです。土器に施された見事な文様やデザインも、それほど重要な通信機器であったと考えれば合点がいきます。
黒曜石がもたらした「AD変換(アナログ・デジタル変換)」
これは私のまったくの妄想ではありますが、彼らは黒曜石の鋭利な石器を用いて、現代の「デジタルの最新テクノロジー」の原型となる考えを獲得していたのではないでしょうか。
たとえば、巨大な獲物の肉を鋭利な黒曜石で「切り分ける」行為。これは、生命という「アナログな肉の塊」を、個別の均質な部位という「デジタル(離散的)な単位」に分解するプロセスです。ただ切るだけでなく、その個数や部位によって家族や仲間への「公平な分配」を調整する。しかも、結果として、家族や仲間と同じタイミングで食事ができるようになり、一種の囲炉裏端での団欒の場が出来上がったという妄想です。そして、この「重み付けと演算」の概念こそ、現代のデジタル文化の基礎となるAD変換そのものだったのではないか。石器によって情報を数値化し、社会的に利用する技術を、彼らはすでに開発していたのです。
自然との「動的均衡」を保つ社会アルゴリズム
また、八幡山遺跡でも見られる「溝状遺構(こうじょういこう)」や各種の石器は、単なる土木工事の跡ではありません。住居の間に張り巡らされた溝は、一種の「境界線(プロトコル)」として機能していました。それは相互の生活空間を侵さないための平和と安定の礎であり、さらには幼児の迷子防止や、危険な動物から身を守る「柵」の役割など、多様な社会の仕組みを生み出していました。
彼らの狩猟採集中心の生活は、弥生時代以降の農業社会や現代の化石エネルギーに頼る「拡張主義」とは決定的に異なります。一万五千年続く「安定」を優先し、変化する自然に順応することを重視した「動的均衡(ダイナミック・エクイリブリアム)」の生活。それこそが、一万五千年も続いた平和な社会の正体であり、閉塞感溢れる現代社会を導くプロトタイプとなり得ると考えたわけです。
結界を超えて、一万五千年前へのワープ
もし今後、あるいはすでにフリーランスへと昇格されているような方でしたら、一度、環八通りの喧騒を背に、そこから少し入ったところにある「水際の散歩道」のモニュメントを訪ねてみてはいかがでしょうか。そこを「結界」とし、一万五千年前の縄文時代へとワープすることが可能です。
ただし、もしもその旅行があまりに楽しくて、こちら側に戻ってきた時に「浦島太郎」のようになっていたとしても、あくまで自己責任ということで、ご了承願います。
文責 千歳会 細淵元洋
